図書館の文章。紫檀さん宅のゼノさんお借りしました。
子供の頃、深く井戸をのぞきこむのが好きだった。
井戸は深く暗かったがその水面には薄い光がゆらと映っていた。毎朝、縄の先に繋がれたバケツを投げ込む。のぞきこむと暑い日でもそのまわりだけひんやりと空気が冷えていて心地よかった。
汲み上げた水も澄んでバケツを傾ければさらさらとこぼれる。
形のない、けれど無いわけではない、澄んだ冷たく綺麗なもの。手のひらに落とし掴もうとするもすぐにこぼれ落ちてしまう。そのもどかしさと戯れるのは心地よかった。
今触れているはずの、男はそれに、水によく似ていると思った。背中からまわした腕は、抱き締めているはずなのにふわり、男の着たポンチョはとらえどころのない感触を伝えてくる。
「離しては、くれないだろうか」
男は言う。緑の髪が揺れる。離しませんよ、メルヴはそう言う。男はまた言う、どうしていいかわからない。メルヴはポンチョの裾をいじりながらも何も答えない。困ったようなけれどもゆるやかな男の声。男とそれほどの数の会話をしたわけではなかったが、時折他愛もない世間話が挟まるが最後は大抵こうだった。
「Xさん、変わってる」
「お前はいつもそう言う。本当に、どうしていいかわからないだけなのだが…」
これも何時もの会話。変わってる、もう一度繰り返し思う。実のところメルヴにも男のどこが変わっているかわかっていなかった。変わっているのではなく形がない、つかみどころのない、だからこれはメルヴにとってただの心地よい戯れ、つかめないから、戯れる。
やがて絡ませていた腕をほどく。ポンチョの裾はするりとての中からこぼれ後には何も残らない。
「少しくらい、抵抗すればいいのに」
男は困ったようにメルヴを見るだけだった。
書架の向こうに消えていく緑の髪が見えた。なぜかいつだかに、男に言われた言葉が今日はやけにひっかかった。
「私はお前のことが嫌いな訳ではない、と思う」
わからないと言う男のその言葉だけが、こぼれなかった気がした。気のせいだともわかったが。
すぐにまた、男を追う。
ああ、水に触れれば濡れるのだと、ふとそれだけを思い出した。
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